イエス・キリストのバースデイ?

2017.11.28公開記事

「もちろんクリスマスの日に決まっているじゃないか」と答える人が多いだろう。でもそれはハズレ。
キリスト教をローマ帝国の国教に定めたコンスタンティヌス帝の治世336年12月25日、ローマ・カトリック教会が太陽神ミトラの誕生日とキリスト生誕日を同化させたのだ。キリスト教がローマ帝国内に普及する前からミトラ教はローマ兵士を中心に広く信仰されていた。

(ナショナル ジオグラフィック チャンネル「マグダラのマリア」から)

 

 

 

 

 

ミトラ神の誕生日というのは冬至の日であり、その日から太陽は夏至の日に向かって高度と日照時間が増していく。不滅の最高神の太陽の成長は生命の誕生や復活の象徴を意味していたから、イエス・キリストの降誕日に重ね合わせると都合が良かった。

  • コンスタンティヌス帝のバランス感覚とキリスト教へのすがる思いの結果

「ローマ皇帝歴代誌」(クリス・スカー著)によれば、

 

 

 

 

 

 

 

324年、東部皇帝リキニウス帝をクリュポリスの戦いで破ったコンスタンティヌス帝はローマ帝国の唯一の皇帝となった。
彼は四分割統治の西部副帝から西部皇帝に至る間は慎重に慈悲深い言動を装っていた。312年までは、それまでの軍人皇帝が太陽を最高神として崇拝していた伝統から逸脱するような行為をとらなかった。313年、彼とリキニウス帝はミラノ勅令を発し、キリスト教を公認してキリスト教会の資産返還を東部属州まで広げていったが、ローマの古代神への信仰を制限したり禁止したりする急激な変化は行わなかった。
ローマ帝国は建国から地中海地域一帯を占領支配していく過程では同化政策を推し進めていった。同化はローマ帝国の占領支配における常套手段だった。

<脱線>

新スタートレックに出てくる、あらゆる他星の生命体を同化していく機械生命体ボーグはこのローマ帝国の歴史からヒントを得ているのではないかと思う

(グラマー・ボーグの<セブン>。スタートレック・ヴォイジャー第72話「名誉の日」から)

 

 

 

 

 

そのセブンを超えてしまったカナダのモルタルさん。あなたが手に持つハンドフェイザー銃で理不尽に撃たれたとしても文句をいう男性は一人もいないでしょう。また他の生命体を攻撃・占領するときのボーグの「お前たちを同化する。抵抗は無意味だ!」の常套句。筆者はもちろん抵抗などしません。喜んで同化されちゃいます。意味不明)

 

 

 

 

 

 

 

<脱線終わり>

ボーグには神はいないが、ローマは積極的に占領支配地の宗教を吸収同化していった。ローマ神のユピテル、ユーノーなどがギリシャ神話のゼウス、ヘラなどとよく似ているのはそのためだ。

またミトラ信仰の儀式はキリスト教の儀式と非常に似かよった点があった。ワインを血に、パンを聖体にたとえて拝領した。これはキリスト教における聖体の拝領儀式そっくりである。偶然なのか、それともどちらかが相手方の儀式を取り入れたのか。

この儀式は新約聖書の共観福音書にも書かれており、またパウロの「コリントの信徒への手紙 一」の「主の晩餐の制定」<11.23-26>にも書かれている。
ただパウロのこの部分の言葉には別の意味で、筆者は違和感を感じている。

<コリ一 11.23>「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜(逮捕される夜)、・・」

と書かれているが、ご存知のようにパウロはこの最後の晩餐にはいなかった。パウロはこの頃、強硬なパリサイ派であった。律法を軽視し反ユダヤ教的な布教を続けるイエス一派を弾圧していた頃である。

筆者はキリスト教徒ではなく新約聖書の解釈の素養もないので読み方が間違っているのかも知れないが、そのままの字句を解釈すればパウロは嘘を言っていることになる。それともイエスの教えを説明する上での便法上の言い回しのためか、あるいは日本語翻訳上でのニュアンスの違いなのか、筆者には違和感を抱く部分ではある。

(ナショナル ジオグラフィック チャンネル「マグダラのマリア」から)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2世紀頃には、この二つの宗教はあまりにも似ているので悪魔が真似て創ったものだとも噂されていたようだ。

324年、コンスタンティヌス帝に邪魔立てするものがいなくなり、彼は自由に政策を行える立場にたった。これまで行っていたローマ神への生贄を禁止し、性的不道徳に関する厳格な法律の制定、儀式としての売春の禁止を定めた。また異教神殿の宝物を捜索し没収するという宗教政策を推し進めた。没収された宝物の一部は換金され、ベツレヘムやエルサレムのなどの聖地での教会堂建設費に充てられた。同時に実質上の帝国の首都となるコンスタンティノポリスの建設も行った。

そして初めてのイエス・キリストの降誕祭を祝った336年、コンスタンティヌス帝が没する1年前である。彼は63歳か64歳の老境に入っていた。ペルシャに遠征しペルシャ人をキリスト教徒に改宗させ、キリストと同じようにヨルダン川で自身が洗礼を受ける計画を立てていたが、337年の復活祭(イースター)の後、重い病にかかり倒れ、イースター後の7回目の日曜日にあたる聖霊降臨日に息を引き取った。

  • キリスト生誕年が西暦元年、のハズが、ちょっと計算ミスしちゃいました

デイスカバリーチャンネル「聖書3賢者の謎」によると、6世紀の修道士ディオニシウスが当時のローマ法王の命でキリスト生誕紀元を算出した。それまで使われていたユリウス暦はローマ帝国建国を元年としていたからだ。彼は計算が苦手だった。ローマ皇帝の年表から歴代ローマ皇帝の統治期間を順に遡って足していった。イエス・キリストが生まれたのは初代皇帝アウグストゥスの時代。

(ディオニシウスが使ったのと同じ歴代ローマ皇帝の年表:「ローマ皇帝歴代誌」(クリス・スカー著)から)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アウグストゥスは皇帝在位の最初の4年間(BC31年―BC27年)はオクタビアヌスと名乗っていた。修道士ディオニシウスはこの4年間をウッカリして計算に入れなかった。さらにディオニシウスは紀元0年からではなく、紀元1年から始めてしまった。結局合計5年間の空白ができてしまった。今では紀元前7-4年の期間にイエス・キリストが生まれたというのが歴史学者や神学者の定説になっている。

(ヒストリーチャンネル「バイブル~知られざる聖書の謎~イエスの真実」から)

 

 

 

 

 

  • イエス・キリストは紀元前7年3月生まれ。「イエスのミステリー」(バーバラ・スィーリング著)から

 

 

 

 

 

 

この著書の64頁に「BC7年の3月に、ヨセフとマリアの間にイエスが生まれた」とある。
著者は当時オーストラリアのシドニー大学で死海写本について講義していたバーバラ・スィーリング博士。1990年、ABC(オーストラりア放送委員会)が彼女の注目すべき仮説をTVドキュメンタリーとして放送した。その放送内容は死海写本と新約聖書との関係に関するものでキリスト教の基礎を揺るがすものだった。革新的・独創的という評価とまやかし・誤解を招くという批判の両極端の物議を醸し出した。しかし博士のこの著書は10カ国語以上で翻訳されベストセラーとなった。
この新説は死海写本だけでなく、ヨセフス(1C頃ローマ軍に投降したユダヤ人。多くの史実を記録に残したことで有名)やフィロン(1C頃のギリシャ哲学を視点においたユダヤ人の聖書学者)の資料、ナグ・ハマディ文書(グノーシス福音書と呼ばれる50を越す文書からなる。新約聖書を補完する部分や矛盾する部分を含む)などの諸文献を新約聖書と比較考証している。スィーリング博士の21年にわたる研究の集大成の成果である仮説だ。
福音書の奇跡物語や矛盾する記述の裏には隠された「暗号」が存在するという聖書解釈の見方が長年あった。博士は「ペシュル」という「暗号」解読技術で新約聖書を読み解くとイエス・キリストの実際の歴史が浮かび上がると説明している。この「ペシュル」は旧約聖書の解釈から採用された技術で、死海写本が発見されたクムランの洞窟近くで活動していたエッセネ派の書記たちがよく使っていた技術だそうだ。
ユダヤは長い期間ローマ帝国の統治下にあったが、ローマの神々ではなく唯一神ヤハウェのみを信奉する要注意の属州だった。またユダヤ戦争と呼ばれたローマへの反乱も起こすやっかいな属州だった。そのためローマから睨まれるような布教本は表立って配ることはできなかった。ユダヤ教は一応ローマから許されていたが新興のキリスト教は地下活動しかできなかった。布教本には直接的に危険な内容や警戒をされるような表現は極力避けなければならなかったという事情が容易に推測される。

この新解釈の著作では、イエス・キリストは十字架にかけられ蛇の毒を盛られ一時的に仮死状態に陥ったが、友人たちに墓から助け出されて蘇生した(153頁)とある。そしてイエス・キリストとマグダラのマリアの間に息子が生まれ、イエス・ユストゥスと呼ばれた(175頁)とある。

スィーリング博士も参考にしたヨセフスの文献だが、ヨセフスはイエスのことを「賢く超越した者」と記している。史実的存在であったことは間違いないようだ。

  • PCソフトで星座をシミュレートしたら、イエスは紀元前6年4月17日生まれ。モルナー仮説だ

ドイツのケルン大聖堂には東方の3賢人(バルタザール、ネルキオル、カスパル)の遺骨が納められている。大聖堂の尖塔の上には十字架ではなく、ベツレヘムの星を象徴するかのようにきらめく星の像が屹立している。

この遺骨はヨーロッパ各地にある中世に作られたまがい物の聖遺物ではなく本物の可能性が高いと謂われている。イエスに関わる唯一の遺骨であるとされ、黄金の棺に納められている。コンスタンティヌス帝の母ヘレナがこの3人の遺骨が入った黄金の棺を見つめている様子が大聖堂の壁画に描かれている。皇后ヘレナは改宗して敬虔なクリスチャンとなった。私財を投じて聖遺物の取集や教会建設などに情熱を傾けた。つまりこの3賢人の遺骨はヘレナが活躍したAD4世紀まで辿ることができる聖遺物とされている。

(デイスカバリーチャンネル「聖書3賢者の謎」から)

 

 

 

 

 

新約聖書に賢人たち(WISE MEN)が記述されているのはマタイの福音書だけである。人数は書かれていない。黄金、乳香、没薬の3つのプレゼントを献上したので3人とした後世の辻褄合わせである。また賢人たち(WISE MEN)とあるが聖書の原本では「MAGI」とペルシャ語で書かれていた。MAGIはペルシャの司祭、パルティアの神官で占星術師であった。マタイの福音書では、マギはヘロデ大王との謁見で「お生まれになったユダヤ人の王はどこにおられるか」、「東方でその方の星を見たので拝みに来た」と話している。

ルカの福音書にもイエス・キリストの降誕日の様子が書かれている。「羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」ところに天使が現れ、メシアが「ダビデの町」(ベツレヘム)で生まれて「飼い葉桶で寝ている」と告げる。
現在ベツレヘムで70年間羊飼いをしている老人に聞いてみると、羊も他の家畜も夜通し外に出しておけるのは4月から9月の間だけで、冬の間は寒さが厳しいので屋内に入れておくのだという。よって厳寒の12月に羊飼いたちは野外で野宿はしていないことになる。

マイケル・R・モルナー博士は米ニュージャージー州立ラトガース大学の天文学教授で古代占星術の専門家でもある。博士は牡羊ときらめく星が描かれた古代ローマ時代のコインを見て「ベツレヘムの星」が何を意味しているのかのヒントを得た。

モルナー博士は星座シュミレーション・ソフトを使い、紀元前5、6年の星空を探してみた。すると紀元前6年4月17日の東の空に牡羊座の中に木星が明けの明星のように現れた。

(デイスカバリーチャンネル「聖書3賢者の謎」から)

 

 

 

 

 

 

古代占星術では牡羊座はユダヤを表し、木星は新しい王を表していた。つまりマギはこれをみてエルサレムに旅立ったという推論だ。他国への旅行の届け出を申請し、準備をし、砂漠を避け、夏の灼熱の日差しを避けるため秋に旅立ったという推測である。

マギはまず当時ローマ帝国内で最大の建造物「神殿の丘」を目指しただろう。ヘロデ大王はローマ帝国の威光をバックに権勢を誇り、地中海世界でも評判となるような巨大建造物を次々と建てていたからだ。人工の山の山頂に建てた要塞宮殿ヘロディウム、巨大人工港湾都市カエサリア、マサダの急峻な崖に建てた要塞宮殿など建造ラッシュ・ブームだった。そのなかでも「神殿の丘」はローマ帝国内のユダヤ人だけなく多くの異邦人も引き付ける有名な観光スポットだった。

マギが生まれたてのユダヤ人の王を神殿の丘で探し回っていると、神殿警備兵のアンテナにひっかかりヘロデ大王の耳に入ったに違いない。ヘロデは「不安を抱いた」と福音書にはある。ヘロデは「祭司長や律法学者を皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした」とある。祭司長たちは「ベツレヘム」だと答えた。ヘロデは善からぬ陰謀を胸に秘めてマギと謁見し言った。ベツレヘムに「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」とマタイの福音書にある。
ベツレヘムに向かって出発したマギ。福音書では「王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が「先立って進み」、ついに幼子のいる場所の上で止まった」とある。

モルナー博士が再び星座シュミレーション・ソフトを使い、その年、紀元前6年の12月の星空を探った。すると木星が牡羊座から先に離れ再び牡羊座に戻ったのだ。つまり木星の逆行が起きたのだ。そしてエルサレムから牡羊座にある木星を眺めると丁度その下あたりにベツレヘムが位置していた。紀元前6年12月19日の星空の様子である。

「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」とある。飼い葉桶、納屋とは書かれていない。もし春に生まれた(例えば4月17日)ならば、このとき約8か月が経っていたことになる。このあとマギはプレゼントを渡し、「ヘロデのところへ帰るな」という夢のお告げに従い、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」とマタイの福音書にはある。

(イタリア・ラヴェンナの聖堂壁画。デイスカバリーチャンネル「聖書3賢者の謎」から)

 

 

 

 

 

伝説によると賢者たちは王になったという。3博士が王の冠をかぶっているクリスマス・カードがあるのはこの伝説がもとになっているからだ。

  • 謎の多い降誕物語ナショナル ジオグラフィック チャンネル「覆されるキリスト降誕物語」から

イエス・キリストの降誕についての記述はマタイとルカの福音書のみ。共通点は2つ、「マリアとヨセフの子」、そして「マリアの処女受胎」。

初期のキリスト教徒たちは4月21日や5月20日に降誕を祝っていたようだ。この日付はユダヤの人々の祝祭日である「初穂の祭」(過越祭の最終日に大麦の初穂を神に奉納)や「7週の祭(ペンテコステ=五旬祭)」(収穫祭の1つ、小麦の収穫が終わった後2個のパンと動物の生贄が神に奉納)あたりに符合するのでなにか関係があるのかもしれない。

また別の資料(ラルース世界史人物百科Ⅰ:フランソワ・トレモリエール他・著)によれば、冒頭のコンスタンティヌス帝の治世336年12月25日、ローマ・カトリック教会による太陽神ミトラの誕生日と同化するまでは、初期のローマ・カトリック教会はキリスト降誕日を4月18日か19日、あるいは3月28日か5月29日にするかで迷っていて見解が分かれていたとある。

死海写本にも書かれているそうだが、当時のユダヤ教の規定では出産直後の女性の汚れの期間が書かれており、清めの儀式が終わるまで、たとえ家族であろうとも男性は母親と赤子には近づけなかった。出産に立ち会えるのは産婆と女性だけであった。だから父親のヨセフも東方の3博士も、布で包まれて飼い葉桶に眠る幼子のイエス・キリストを見ることも近づくこともできなかったことになる。マタイとルカの福音書にもヨセフが出産の手伝いをして傍にいたという記述はない。

旧約聖書 レビ記の「出産についての規定」(12.1-8)がある。その抜粋の一部「産婦は出血の汚れが清まるのに必要な33日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なるものに触れたり、聖所にもうでたりしてはならない」(レビ 12.4))とある。

(死海写本の清めの規律を強調した部分。ナショナル ジオグラフィック チャンネル「覆されるキリスト降誕物語」から)

 

 

 

 

マタイとルカの降誕の状況の記述が実際の状況と大きくかけ離れているのは、この2つの福音書が紀元80-90年頃に書かれたと考えられていて、2人がイエス・キリストの直弟子ではなかったとされている。